ヒロキと六つの大陸と一つの島⑤ ~~~最後の大陸~~~

  
  
  
   
ヒロキと六つの大陸と一つの島、そして100万匹のウォンバット

第五回
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⑦ 最後の大陸
  
  

そこは気持ちがいい場所だった。寒くもなく暑くもない。見上げればドア越しに見えたとおりの青い空がどこまでも遠く広がり、大きな雲がゆっくりと流れていく。
吹いてくる風が優しい音を立て、僕の長い髭を揺らす。
────地面に生えている草、遠くに見える大きな木、そして土の感じ────不思議な感覚だ。なんだかとても懐かしい。

「ヒロキ、ここがどこかわかる?私達の六つ目の大陸は『オーストラリア大陸』、ヒロキの生まれ故郷、ヒロキが産まれた大切な大陸なんだよ。この素敵な旅は神様からのヒロキへのプレゼント。それは私達人間の神様じゃない。そう、ウォンバットの神様がヒロキにくれたプレゼント────そうなんでしょう?」

────お姉さんも気がついたようだ。ウォンバット神様がこの旅に連れだしてくれたっていうこと、そしていつも見守ってくれているということを。

 僕が産まれた大陸、『オーストラリア大陸』に僕は帰ってきた。全部忘れかけていた生まれ故郷にお姉さんと一緒に帰ってきた。
僕はこの旅で昔のことを思い出せるのかもしれない。
  
  
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 どこか遠くでワライカワセミの声がしていた。聞き慣れた声だ、間違えたりはしない。
「向こうの方に見えるユーカリの林から聞こえてくるね」とお姉さんは言った。

「あの林に行ってみよう、きっと誰かいるんじゃないかな」
お姉さんはユーカリの林の方へと歩いていく。
僕は途中に生える草の匂いを時々嗅ぎ、広がる大地を見渡し、高い雲がゆっくりと流れる空を見上げながら後をついて歩く。
そして「ここがオーストラリア大陸────」と、歩きながら何度も呟いた。

 オーストラリア大陸にはワライカワセミの他にも、大勢の動物達が暮らしているはずだった。きっとまだ知らない動物達だって大勢いる。
動物達に会いたい、中でもオセアニア区で暮らす動物達の仲間に僕は会いたい────ワラビー、カンガルー、ヒクイドリ、コアラ。
そして僕と同じウォンバット。

 ここがオーストラリア大陸と聞く、動物達のことを考える、気持ちのいい風が吹き続ける────すると僕は駆けまわりたくなる衝動を抑えきれなくなってくる。
ここまで一緒に旅を続けてきたんだ、きっとお姉さんも僕と同じ気持ちのはずだ────

「僕はオーストラリアに、産まれた場所に帰ってきたんだ!」
僕は普段は出さないような大声で叫び、そして前を歩いていたお姉さんの横をすり抜け先へ行く。
向こうに見えるユーカリの木の林に向かって一気に走りだした。

「ヒロキー、待ってー」と、お姉さんの声が後ろから聞こえる。その声は本当に明るく楽しそうだった。

────楽しい気持ちがいつも一緒。そう、それはこんなにも嬉しいこと。
  
  
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 近くから見上げたユーカリの木はとても大きかった。
何本もの大きなユーカリの木がそこらじゅうに立っている。こんな景色を見れば、ここが本当にオーストラリア大陸なんだと実感する。

「ヒロキ、見て!あそこにコアラがいる。かわいいコアラがいるよ」
ユーカリの木の高い所でぐっすりと眠る一人のコアラをお姉さんが見つけた。
「本当だ、あんなに高い所に……さすがコアラだ、木に登ることが凄く上手だ」

僕はバオバブの木のことを思い出していた。
もし僕がウォンバットじゃなくてコアラだったなら、アフリカ大陸のあの大きなバオバブの木を上手に簡単に登れたんだろう────

 上を見上げ別の起きていそうなコアラをじっくりと探していた時、すぐ近くからふいに話しかけられた。
「やあ、君はこの辺りでは見かけない顔だね。君みたいな“おでこにしわ模様”のあるウォンバットには今まで会ったことがない」
どこからか地面を歩いてきたコアラが、お姉さんの足元で顔を出している。

「僕はウォンバットのヒロキです。日本の金沢動物園という所から来ました」
僕がいつものように自己紹介をすると、そのコアラは隣にあったユーカリの木を登り出し、大きなあくびをした。
「そろそろこの辺りに暮らすウォンバット達がやってくる。もしウォンバットに会いに来たのなら、君達はここで少し待っていればいい」

────「ウォンバット達がやってくる────」その言葉だけで僕の胸は高鳴り、頭の中を大勢のウォンバットが走りだす。
  
  
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 「ウォンバット達はどこからやって来るんだろう────」と、ぼんやり遠くを眺めていると、きっと会えると思っていた動物達が楽しそうに暮らしているのが見えた。

大きなカンガルー、小さなワラビー。そしてその間くらいの大きさのワラルーだ。エミューやヒクイドリ、大きな鳥達も気持ち良さそうにゆっくりと、ただ楽しそうに歩いている。
 明るくとても広いオーストラリア大陸で大勢の動物達が暮らしている。その風景を見た僕は幸せな気持ちになった。
「僕の生まれ故郷はとても素晴らしい所だ」と、自然と何度もつぶやいた。

 コアラが僕とお姉さんを呼んだ。この辺りで暮らしているウォンバット達が来たと言う。
振り返るとすぐ後ろには僕と同じ“ウォンバット”が立っていた。
「こんにちは、“おでこにしわ模様”のウォンバット君」と、一番大きなウォンバットが僕達に微笑む。

「僕の名前はヒロキと言います。日本の動物園から来ました。皆さんと同じウォンバットです。旅をしながらここまで、オーストラリア大陸まで来ました。ここは僕の生まれ故郷です────」

嬉しい時の涙がこぼれ落ちそうだった。僕と同じウォンバットがここで暮らしている。日本には数少ないウォンバットがオーストラリア大陸では大勢暮らしている。みんな僕の仲間達、世界で暮らす仲間達なんだ。

「ヒロキ君、そちらの人は誰なんだい?」と、ウォンバット達がお姉さんを見上げた。
「お姉さんは僕の大切な人です。僕が暮らす金沢動物園で動物達みんなの飼育係をしてくれています」
そう答えてもウォンバット達はお姉さんの顔をじっと見つめて動かない。みんなはお姉さんのことをどう思っているんだろう。

────僕の大切なお姉さん。大好きな優しいお姉さんをウォンバット達に紹介しよう。きっとみんなも大好きになってくれる────お姉さんはウォンバット達、そして世界中の動物達のことが好きだから。
  
  
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 お姉さんは僕達の美味しいご飯を用意してくれる。
 お姉さんは僕達の部屋を綺麗に掃除してくれる。
 お姉さんは僕達の庭を綺麗に掃除してくれる。
 お姉さんは僕達に暖かい干し草のベッドを作ってくれる。
 お姉さんは僕達をお客さんに楽しく紹介してくれる。
 お姉さんはいつも僕達を心配してくれる。
 お姉さんはいつも僕達を安心させてくれる。
 お姉さんはいつも動物園の動物達に優しくしてくれる。

 そして、お姉さんは時間になると僕を呼びに来てくれる。「ヒロキー」って、優しい声で僕を呼んでくれる────その声が僕は一番好きなんだ。

「そして今、僕と一緒に旅を続けてくれている」

「こんにちは」と、お姉さんはウォンバット達ににっこりと微笑んだ。
その笑顔を見たウォンバット達もにっこりと微笑み、お姉さんの足元に集まった。そしてお姉さんに体をこすりつけたり、鼻を押し当てたりしている。
お姉さんはそんなウォンバット達を一人ひとり優しく撫でている。

 お姉さんはたちまち人気者になった。明るいユーカリの林の木漏れ日に照らされたみんなが笑っている。僕の大好きなお姉さんのことは、ウォンバット達みんなも大好きなんだ。
楽しそうに笑っているお姉さんの顔に僕は今少しの不安も無い。このまま旅の終わりまで何も悪いことは起こらない────
  
  
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 いつのまにかカンガルーやワラビー、ユーカリの木の上からは色々な顔のコアラ達、オーストラリア大陸で暮らす大勢の動物達が集まって来ていた。
「よく来たね」「日本からだって?」と、みんなが楽しそうに話しかけてくる。

僕とお姉さんには友達がまたいっぱい出来た。

「ヒロキ、楽しい?」と、集まったみんなが賑やかにしている中、お姉さんが小さな声で言う。その顔は何故か少し寂しそうだった。

「もちろん楽しいよ」
僕が返事をすると、お姉さんは僕をぎゅっと抱きしめた。そして今度は僕の小さな目を見つめ、少し大きな声で話しだす。

「ヒロキ、二人共無事にここまで来ることが出来て本当に良かったね。残念だったけど、ヒロキは長い間一人ぼっちだった。でも、ここには大勢のお友達、大勢のウォンバット達が暮らしている。こうしてヒロキが楽しそうにしていると、私も幸せな気持ちになる。この素敵な旅の終わりまで、その時が来るまで、みんなと一緒に遊ぼうね」

────動物園では僕一人がウォンバットだった。でも寂しいとは思ったことは今まで無かった。旅が始まり、僕はお姉さんと一緒にここまで来た。金沢動物園での暮らしもずっとお姉さんと一緒だった。だから寂しいとは感じなかった。そんな僕は世界一の幸せ者だ。
  
  
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「そうだ、ここから少し歩いた所にある別のユーカリの林でコアラが大勢暮している。そこにお母さんのポッケからやっと顔を出した小さなコアラの赤ちゃんがいるんだ。その親子の所に行ってみないか?」と、ウォンバットの一人が言った。
「ヒロキ、行ってみようよ。コアラの赤ちゃんは本当にかわいいよ」
お姉さんはオーストラリア大陸に来てからずっとかわいい笑顔だ。

もちろん僕もずっと笑っている────最高に幸せな時間が今ゆっくりと進んでいる。

 お姉さんと大勢の動物達、みんなと歩くオーストラリア大陸。それは僕を不思議な気分にさせる。
青く広がる綺麗な空はどこまでも続き、遥か遠くまで広がる草原と交わっている。草原の草は穏やかな風になびき、その風はどこか懐かしい匂いがする。
覚えていたわけでは無い、でもこうして歩いてみればどこか何故か懐かしい。

僕はここで、オーストラリア大陸で暮らしていた────それは確かなことなんだと思い始めた。

「あのユーカリの木だ」と、ワラビーが指さした。全員がそのユーカリの木を見上げる。するとそこには、とても小さなコアラの赤ちゃんがお母さんの背中にしっかりと抱きついている姿が見えた。
 その親子と仲がいいというコアラが、まだ少し眠そうにしている親子に「おーい、旅をしているというウォンバット達が来たんだ、降りてこないか」と声をかけた。
「旅をしているウォンバットですか?それは素敵な方ですね」
呼ぶ声に気が付いたコアラのお母さんが小さく手を振り、そう答えた。そして赤ちゃんを背中に背負ったままゆっくりと降りてくる。
すぐ近くで見るコアラの赤ちゃんはとてもかわいい。キラキラと輝く大きな瞳はじっと僕達を見ていた。

「こんにちは」と、僕は声をかける。
「こんにちは」
コアラの赤ちゃんは返事をしてくれる。

コアラの親子は笑っている。ここにいるみんなが笑っている。
幸せに暮らしている動物達が幸せなオーストラリア大陸を作っている────

 コアラの親子を見た僕の頭の中に浮かんでくることがある。

────小さな自分の身体、お母さんの優しい顔────そうだ、僕のお母さんもいつだって笑顔だった。

────記憶の一番奥にある深い森の中────いったいそこは何処なんだろう?
  
  
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「よろしければ旅のお話、世界のお話をこの子に聞かせてあげてくれませんか?」と、コアラのお母さんが言った。
コアラの赤ちゃんがまだ何も知らないこの世界のこと、それを今の僕は少しだけ知っている────旅で見てきた風景、そして経験だ。
その素晴らしいことを今度は僕が話をする番だ。

「僕が出来る世界のお話は、この旅で見て経験してきたことのお話だけです。きっとそれは、この広い世界のほんの一部です。それでも素敵なこと、素敵な出会いがたくさんありました。旅で見たこと、出会った動物達のことをこれから話します」
僕はコアラの赤ちゃん、そして傍にいる動物達に旅の始まりからここまで全部のことの話をした。
 みんな静かに、そして興味深く聞いてくれる。旅は動物園のドアから始まったこと、着いたのは北アメリカ大陸だったこと。
そしてユーラシア大陸での大きなおじいさんとホッキョクグマのお話のこと。
南アメリカ大陸でコンドルと空を飛び、それから自転車でお姉さんと山を下ったこと。
南極大陸と南極点のこと。

そして僕を助けてくれた動物達全員のこと────

どんな出来事も僕はこと細かに覚えている。話をするのは少し苦手だったけど、この素晴らしい旅のことをみんなには伝えたかった。お姉さんと一緒に旅をしてきた時間が遠い昔の話になる前に、誰かに聞いて欲しかった。
  
  
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「大きくなったらコアラも旅が出来るかな?」
僕の話を聞いたコアラの赤ちゃんは、抱きついていたお母さんの背中から小さな身体を乗り出し目を輝かせている。

「もちろんだ。いつになるかはわからないけど、旅に出る日がきっと来るよ。そうだ、君の旅はどんなものになるんだろうね。コアラの旅は僕にもわからない。僕はみんなの旅がどんなに素敵なものになるのか、今から本当に楽しみだ」

 僕は旅の途中で気付いたこと「飼育係のお姉さんのことを大好きなだけじゃなく、心から大切に思っている」────その想いは誰にも話さなかった。
それを僕が話してもきっと誰にも伝わらない、そしてそんな気持ちにいつかきっと誰もが気付く。だから僕が今話すことでは無い────そう考えていた。

 楽しい時間が続いていく中、僕は何故か先のことばかり考えるようになっていた。
お姉さんはここが最後の大陸だと言った。もうドアは現れないのだろうか?
それとも次に現れるドアは“金沢動物園に帰るドア”なのだろうか?

『できることならずっとここで暮らしたい。お姉さんと一緒にオーストラリア大陸で暮らしたい────』
僕はそんなことを考えるようになっていた。

────もうドアをくぐらなければいいんだ。僕がノックをしなければドアは開かない。
  
  
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 動物達と楽しく遊ぶお姉さんとふと目が合った。その時僕は考えてはいたけれど、言ってはいけないことをつい口にしてしまった。

「お姉さん、やっぱり金沢動物園に帰りたいと思うかい?」

僕のその言葉にお姉さんは戸惑っていた。
少し考え、そしていつもの優しい声で話しだす。

「ヒロキ、この旅は本当に楽しいよ。動物達はみんな優しく、景色だってとても素敵。ヒロキとたくさんお話も出来るし、自転車にだって一緒に乗った。それにヒロキが採ってきてくれたバオバブの実は本当に美味しかった」

────いつのまにか女の子のウォンバットが僕とお姉さんをすぐ近くから見つめている。

「ヒロキが何を言いたいのかわかる。でもそれは駄目なの。動物園で動物達が、飼育係達が、そしてお客さん達みんながヒロキの帰りを待っている。この楽しい旅にも必ず終わりが来る。それはしかたないことだと思う」
いつになく真剣な表情でお姉さんは優しく話し続ける。

「私も動物園に、家に帰らないといけない。帰りのドアが現れたら────その時私は帰りたい、帰らなくてはならないの」

────そうだ、お姉さんは僕だけのお姉さんじゃない。いつかは必ず動物園に帰らなくてはいけない。そのことを忘れては駄目だ。
この楽しい時間に溺れては駄目だ。

「そんな悲しい話をしないで。そのドアっていう物が良くわからないけど、まだここにいることは出来るんでしょう?」
僕達の話を女の子のウォンバットはすぐ傍で聞いていた。だから心配になったんだろう。

「ドアは急に現れる、本当に不思議なの。でも今はまだ見当たらない。だからまだ大丈夫、みんなと一緒に遊びましょう。動物園でヒロキは長い間ずっと一人だったの。こうしてみんなと一緒に遊べることがヒロキも私も本当に嬉しいんだよ」
お姉さんは女の子のウォンバットの横に座り、頭を優しく撫でてあげていた。
「良かった、まだまだ大丈夫なのね」と、女の子のウォンバットは安心したように微笑んでいた。
  
  
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「ここから少し歩いた所に綺麗な海が見える場所があるの。そこにみんなと一緒に行ってみない?」
女の子のウォンバットは無邪気に笑う。
お姉さんは「楽しそうだね」と言って微笑んだ。

 コアラの親子に「さようなら」を言い、僕達は綺麗な海が見えるという場所に向かって歩き出した。
初めて見る風景を眺めて歩けば退屈する間もなくその場所まですぐに着く。

海と空が綺麗なのは、どこの大陸でも一緒だ。青く広がる空と青く澄んだ海、その二つは遥か遠く水平線の所で溶けて混ざる。
空と海の境目が何処なのかわからない。ここから見る空と海の青さは完全に一緒だ。

「きっとあの島がタスマニアだよ。タスマニアにも色々な動物達がのんびりと暮らしているんだよ────」
遠くに浮かぶ島を見ていつものようにお姉さんが教えてくれる。
それなのにその時の僕は旅の終わりについてのことばかりを考えていた。

「ヒロキさん、さっきの旅のお話は素敵だった。私も一緒に旅をしたくなってきちゃった。世界中の色々な大陸に私も行ってみたい、素敵な風景をいっぱい見てみたい」と、女の子のウォンバットは僕の隣に来て楽しそうに話す。
「ここから見える海と空も綺麗だよ。君達が暮らすこのオーストラリア大陸は素晴らしい所だ。君がもし同じような旅をしていたらきっとわかる、僕達ウォンバットにとってここがどれほど素敵な大陸なのかってことをね────」

僕は穏やかに香る潮風に吹かれ、どこか遠くを眺めながらぼんやりと答える。

────オーストラリア大陸が最後の大陸だとしたら、それはどうしてなんだろう。
もう僕達が行く場所が残されていないのか、それとも時間が残っていないのか。『最後の大陸』だとお姉さんが言った────きっと間違っていない。

次のドアは帰るためのドアだ。
  
  
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一度はちゃんと帰ろうと考えたけど、僕は弱虫だ。いつまでも旅の終わりを気にしている。この旅の楽しさに甘えてしまっている。
  
  
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 気が付くと辺りは暗くなってきている。また夜が来そうだ。このまま夜になればきっとお姉さんは金沢動物園のことを思い出すだろう。
いつもなら動物園は閉園する頃だ。お姉さんも自分の家に帰らなくてはいけない、そんな時間だ。

今度は夜明けが怖い。眠って、そして目が覚めたらきっとドアが僕達の前に現れる。それは旅の終わりを意味することになる。

もしかしたらオーストラリア大陸が最後の大陸ではなく、旅は続くのかもしれない────
でも僕はわかっている、そんな望みはきっと叶わない。

 次のドアをくぐりオーストラリア大陸から離れる────それで本当に終わりなのだろうか?
────僕はこの旅を、この素晴らしい旅を終わりに、このまま終わりにてしまってもいいのだろうか。

 お腹が空いてきた僕達は、地面に生えている草を食べた。この辺りは美味しい草がたくさん生えていて食べ物には困らない。お姉さんはバオバブの実の残りを食べていた。バオバブの実を少し多めに採ってきておいて良かったと思った。
  
  
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 赤く大きい夕日が静かに、ゆっくりと沈んでいく。この旅で二回目の夜が来る。

「ヒロキ君、僕達はウォンバットだ。夜が来ると楽しいだろ?そう、ウォンバットは夜行性だ」
どこか得意気にウォンバット達が言う。

動物園で暮らす僕は今まで夜行性ということをあまり気にしてなかった。
眠い時には寝て、起きている時には散歩をしたりご飯を食べる。お客さんに会えるのも朝から夕方までだ。
でも夏の間や夜寒くない時期は確かに夜の方が楽しいと思っていた。それは大好きな星や月のせいだけじゃない。朝も昼間も夕方も、いつだって空は綺麗だ。
でも僕は夜の方が楽しいと感じている。こうしてお姉さんと一緒ならなおさらだ。

「夜行性か────」
オーストラリア大陸のウォンバット達を眺め、僕はふとつぶやいていた。

 掘りやすそうな柔らかい地面を探し、僕は穴を掘ってみる。“さっさっさっ”と、土を後ろへ飛ばしていくことはとても楽しい。それになんだかいつもより大きな穴を掘ることが出来そうだ。みんなと過ごす楽しい夜だからなのか、それとも僕の生まれ故郷、オーストラリア大陸の土だからなのか。

「ヒロキ君、控えめだけど君らしい素敵な穴を掘ってるね。僕達も負けずに大きな穴を掘ろう」と、ウォンバットの一人が楽しそうに笑った。
みんなはそれぞれの穴を一人ひとりのリズムで掘り出していく。
とても手足の回転が早いウォンバット、大きくゆっくりとした掘り方のウォンバット。穴の形も色々だ。

とても上手に、とても楽しそうに────お姉さんはそんな僕達ウォンバットを優しい笑顔で見つめ、とても嬉しそうに頷いていた。
  
  
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 ウォンバットは毎日こうして暮らしている。みんな楽しく笑いながら暮らしている────想像しかしたことのない、本当は何も知らない光景だ。

────眠りたくない。こうしてみんなと遊ぶのは楽しい。そして眠ってしまうと目が覚めた時、その時すぐにでもドアが現れてしまうかもしれない。もしウォンバットの神様が近くにいるのなら『この旅はこれからどうなるんですか?』と、不安だけど訊いてみたい。

 ドアが現れること────僕は今それが一番怖い。

 穴を掘ったり走りまわってみたり、夜空に星座を探し、お腹が空いたら美味しい草を食べる────月の輝く場所がだいぶ変わっている。オーストラリア大陸の夜の時間はだんだんと過ぎていく。

 ふと寂しくなり先のことを考え出していた僕は辺りを見回し「お姉さん」と呼びかけた。
何度か呼んでみても返事は無い。僕は辺りを早足で歩き、お姉さんの姿を探す。
 すると少し離れた所でお姉さんはユーカリの木にもたれ、気持ち良さそうにぐっすりと眠っていた。
僕はお姉さんの傍に立ち、お姉さんの寝顔を見る。

「お姉さん、本当に今までありがとう。この旅を楽しむことが出来たのは動物達と、それと間違いなくお姉さんのおかげだよ。僕にはわかる、この旅はそろそろおしまいだ。そして、お姉さんはみんなが待っている金沢動物園に帰らなくてはいけない。旅が終わることは寂しい、もしかしたらやり残したこともあるかもしれない。でもしかたがない。もう僕は一生分の旅を楽しんだ。動物園に戻ったら、またよろしく願います」
僕はお姉さんを起こしてしまわないように小さな声で話した。星明かりにそっと照らされたお姉さんを見つめると、その顔は寂しく微笑んだように見えた。
  
  
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────遊びまわった僕達はだんだんと眠くなる。夢を見る準備が出来た僕達は、そろそろ眠らないといけない。眠りたくないと思っていても、何故か眠くなる。夢を見る準備ができたら眠らないといけない。

それは神様との約束なんだ────

「あれだ────きっとあれが南十字星」
僕は夜空を見上げ、そっと呟く。僕とお姉さんを煌めく特別な星々が照らしている────そう感じた僕はゆっくりと横になり自然と目を閉じた。

 いつの間にか僕も眠ってしまっていた。お姉さんと一緒に眠る、二回目の夜だ。
  
  
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 その夜、僕は夢を確かに見たはずなのに何故か少しも覚えていない。
夢を見るための準備があまり上手く出来ていなかったのか、もしかすると夢のなかで見た夢だったからなのか────ただ深く眠り、そしていつの間にか次の朝が来ていた。

 ワライカワセミが鳴く声で目を覚ました僕は辺りを見渡し、ここがオーストラリア大陸だということ、そしてドアがまだ現れていないことを確認する。

「────大丈夫だ、まだ旅は続いている」

 朝になり改めて見渡すオーストラリア大陸の風景はとても雄大な物だった。
風に草がなびく草原、背の高いユーカリの木に大きな岩。遠くに見える豊かな森を抱えた山々。そしてどこまでも広がり続いていく、どこよりも青い空。生まれ故郷の確かな景色に心がもう一度惹かれていく。

「ヒロキ、おはよー」と、まだ少し眠そうなお姉さんの声が聞こえた。

「ごめんね、昨日は先に眠ってしまったみたい。昨日の夜はみんなとたくさん遊べた? ヒロキ、本当に楽しそうだったんだよね」と言い大きなあくびを一回した。
そして伸びをしてから立ち上がり、少し目を細め辺りを見渡していた。僕と同じように、ここがオーストラリア大陸だということを確認しているようだった。

 気づくと、昨日一緒に遊んでいたウォンバット達の姿が見当たらない。
「そういえばみんなはどこにいるんだろう……僕もいつの間にか寝てしまっていたからわからない。みんなはどこか寝る場所が決まっているのかな……」
「そうだね、昨日はあんなに大勢いたのに。何処にいるんだろう」と、お姉さんも首を傾げる。
ウォンバット達の寝場所はわからない。
  
  
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 ユーカリの林を遠くに見つけ、昨日会ったコアラの親子のことを思い出した。
あの時、かわいいお母さんと小さな赤ちゃんを見て頭の中に思い浮かべたこと────それは昔はぐれた僕のお母さんのこと。
それを知ることがもし出来るなら、僕はもうこの旅に思い残すことはない。そんな気がしていた。

「お姉さん、僕はウォンバット達に訊いてみたいことがあるんだ。誰か僕のお母さんのことを知っているウォンバットはいないかな、と思ったんだ」
お姉さんは何度か頷いて、僕の隣に座った。
「そうだね、あれだけ大勢のウォンバット達がいるんだから、誰か知ってるかもしれないね。ヒロキがはぐれてしまった時、きっとお母さんは凄く心配しただろうし、ヒロキを探しまわったと思う。その時大勢のウォンバットに訊いて回ったはずだしね」

そしてお姉さんは思い出したように言った。
「ヒロキ、メルボルン動物園のことは覚えてる?ヒロキはボゴング山で助けてもらった後の少しの間、メルボルン動物園で暮らしていたんだよ」

「それがよく覚えていないんだ。小さい頃の記憶は、ぼんやり覚えているお母さんの顔と背中、そして深い森の緑色しか無いんだ。残念だよ。メルボルン動物園はどんな所なのかな」
僕はオーストラリア大陸の風景を眺め何度も思い出そうとしたけれど、本当に忘れてしまっていた。

────ぼんやりとしか浮かばないお母さんのことと、その時暮らしていた森のこと、そしてこの旅の思い出以外は全て金沢動物園での記憶だ。
僕の頭の中には他に何も無い。僕はオーストラリア大陸で間違いなく、本当に産まれたのだろうか?
  
  
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「やあ、おはよう。もう二人共起きていたのか。さすがだよ、なんだかとても早いね」
どこからかウォンバットの声が聞こえてきた。そして地面に空いていた大きな穴からウォンバット達が次々と出てくる。どうやらウォンバット達は掘った穴の奥のほうで寝ていたらしい。

「朝ご飯を食べようよ」と、穴から出てきたウォンバットの一人が顔にたくさんの土をつけたまま言った。そしてウォンバット達はときおりあくびを繰り返しながら一列に並んで歩いていく。
僕とお姉さんもその後をついていき、朝のオーストラリア大陸を爽やかに少し散歩した。

少し歩き、登った丘の上で朝日に光る海を眺め軟らかい草を食べ、そして側に流れる小川の綺麗な水を飲んだ。お姉さんはポッケから出したバオバブの実を食べている。
「これで最後」と、お姉さんは言った。

 朝ごはんを食べ終わり一息ついた頃、ウォンバット達が寝ていたトンネルの入口、さっき見たその大きな穴が気になった。
僕は自分で掘った穴にしか入ったことがない。ウォンバット達が一生懸命に穴を掘り、楽しんで作ったトンネルに興味が湧いた僕は中を覗いてみたくなった。

「みんなの掘った穴、トンネルの中を見てみたいんだ。入ってみてもいいかい?」
と、聞いてみるとウォンバット達は「もちろんだよ!」と喜んでいた。そして僕達はまた一列になり歩き、穴のある場所へとみんなで戻った。

「ここの入り口が一番長いトンネルに繋がっているよ」と、一度中に入って確認して、また外へと出てきたウォンバットが微笑んでいる。

「ヒロキ、お邪魔させてもらいなよ。私にはちょっと狭そうだから……残念だけど入れないなぁ」と、お姉さんは入り口から中を覗き込み、そして笑っていた。

「ありがとう。ちょっとだけ見てきます。これも大切な旅の思い出になると思います」
楽しそうに見ているウォンバット達にそう話し、隣に座っているお姉さんに頷きながら微笑みかける。そして僕はトンネルの中へと慎重に入ってみた。

オーストラリアのウォンバット達が掘ったトンネルは長く遠くまで続いていた。動物園で普段僕が掘っている穴とはぜんぜん違う。

────凄いトンネルだ。ウォンバットはこんなに凄いトンネルを掘ることが出来る。ウォンバットは木に登れない、でも穴を掘ることが出来る。こんなに凄いトンネルを掘ることが出来る。
  
  
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 トンネルの中は暑くもなく寒くもない。とても快適な場所だった。僕は分かれ道も全部くまなく歩いた後、光が見える方向に進みトンネルから出た。
太陽がとても眩しい。どうやら元の場所とはぜんぜん違う所に出たようだ。トンネルは本当に長く大きかった。
遠く離れてしまった入り口の辺りで、お姉さんが大きく手を振っている。地面の上からでは何もわからないけど、地下には長いトンネルが向こうからここまで続いている。

 この旅で僕は動物園では出来ない経験をたくさんした。ここオーストラリア大陸だけじゃなく旅をしてきた全ての大陸で色々な景色を見て大勢の動物達に出会ってきた。

────遠くで手を振るお姉さんを見た僕の頭の中に、何故か旅の今までのことが繰り返されて来る────そうだ、旅は本当に楽しかった。

「今しかない────」

僕はお姉さんとウォンバット達の所に戻り、ずっと考えていたことを切り出した。
「誰か僕のお母さんのことを知っていたりはしませんか?僕がまだ小さな頃、オーストラリア大陸の何処かの山、森の中で僕はお母さんとはぐれてしまいました。その後僕は誰かに助けてもらいました。オーストラリアの動物園で少しの間だけ過ごし、そして日本の金沢動物園でこれまでずっと暮らしてきたんです。はぐれてしまった時、お母さんは僕を探してくれたと思います。その時僕のお母さんに誰か会っていないかなと、そう考えたんです」

みんなにはそう訊いてみたけれど、僕は半分諦めていた。この広いオーストラリア大陸で、そんなに都合よくお母さんのことを知っているウォンバットはいるはずがない────そう思っていた。

────どんなに望んでもお母さんとはもう会えないってことはわかる。ただ僕は知りたい、オーストラリア大陸に僕のお母さんが暮らしていたこと────
そして僕がここオーストラリア大陸で産まれたっていうことをただ確かめたいだけなんだ。

「ヒロキ君のお母さんか……誰か知っているかい?」
ウォンバット達がざわざわと話しだした。みんな思い出そうとして考えている────
でもやっぱり、僕のお母さんのことは誰も知らないようだ。

「一番の年寄りの私でもわからないねぇ……なんせとても昔のことのようだ、みんなわからない、覚えていないようだ。力になれなくてすまないねぇ、ごめんよ」と、重い雰囲気の中で一番年寄りのウォンバットが言った。
「いえ、いいんです。僕こそ難しいことを訊いてしまってごめんなさい」

────自分自身で少しも覚えていない遠い昔のことを誰かが覚えている、もしそんなことがあればそれは奇跡なのかもしれない。

「今ヒロキさんが言った動物園っていうのは、あの動物園のことかな? この前お母さんと一緒にすぐ近くまで行ったんだ。人が大勢いてなんだか楽しそうだった」と、目を輝かせながら子供のウォンバットが話しだす。

「そこは本当にメルボルン動物園────もしここから歩いたらどのくらいで、もしかしたらすぐにでも行けるのかな?────」

 メルボルン動物園のことをぼんやり考え出し始めた瞬間、「あっ!」と言うお姉さんの大きな声が少し離れた所から聞こえてきた。

「向こう、向こうを見て!ドアが、いつの間にかドアがあんな所に────」

 お姉さんの視線の先を僕も見た。そこにあるのはいつもと同じあのドアだ。鼻でノックすると開く、あのドアだった。
  
  
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「ヒロキ……」
お姉さんは僕の傍まで来て小さな声を出す。お姉さんの体が少し震えている。その目には少しずつ涙が溜まってきている。

「お姉さん、やっぱりあのドアを開けなければいけないのかな。見つけたドアはすぐに開けて、くぐらなければいけないのかな。覚悟はしていたけど、駄目だ。やっぱり僕はもう少しここに、まだオーストラリア大陸にいたいんだ────」

僕も身体を震わせ、涙は必死にこらえ精一杯の声を出して話す。

「ここはヒロキの生まれ故郷だし、大勢のウォンバット達や動物達が暮らしている。私もここが好き。オーストラリア大陸とここで暮らす動物達が大好き。でもねヒロキ、前にも言ったとおり私達はそろそろ帰らないといけない。いつかは家に、みんなの所に帰らないといけない。楽しい旅って、きっとそういうこと。今頃金沢動物園では、みんなが私達のことを心配している。ドアはきっと動物園に繋がっている。本当に私もこの素敵な旅が楽しかった。旅が終わるのはとても寂しい、本当に寂しい」
そう話した後、お姉さんは両手で顔を覆い地面に膝をついた。必死にこらえ、さっきまで目に溜まっていた涙が溢れだし、オーストラリア大陸の土に次々と染みていった。

────お姉さんの涙は見たくない、悲しませては駄目なんだ。

「もう泣かないで、お姉さん。そうだよね、旅に終わりが来るのはしょうがないことなんだ。お姉さん、僕も帰るよ。みんなが待っている金沢動物園に二人で帰ろう」

お姉さんは何度も横に首を振り、涙で赤くなった目で僕を見つめる。
「ヒロキは大丈夫。お別れするのはとても辛いけど、ヒロキはオーストラリア大陸でずっと暮らしても私はいいと思う。ヒロキが今どうしているか、金沢動物園のみんなには私が話すから────だからお願い、私のためにドアを開けて」

 僕は短い時間で色々考えた。旅のこと、動物達のこと、生まれ故郷オーストラリア大陸のこと、そしてお姉さんのこと。

────僕はお姉さんとずっと一緒にいたいと思っている。それはこの旅の途中ではっきりとわかったことだった。オーストラリア大陸はとてもいい所だ。大好きな動物達も大勢暮らしている。でもどんなに素晴らしい所だとしても、お姉さんが一緒にいてくれないなら駄目だ。もちろん金沢動物園でなら、お姉さんとずっと一緒だ。僕の暮らしからお姉さんがいなくなるなんて、もう少しも考えられない。

「お姉さん、一緒に金沢動物園に帰ろう。あのドアをくぐって一緒に帰ろう。旅は、旅は最後にきちんと家に帰るから素敵な思い出になるんだよね」
僕は今出来る精一杯の笑顔で泣いた。涙でぼやけた空を眺めながら一歩一歩ドアに向かって歩くと、何も言わずにウォンバット達もついて来る。
「それでいいの?ヒロキ、本当にそれでいいの?」と、すすり泣く声と泣いて腫らした目、お姉さんもそのままドアの所まで歩いてくる。涙は何度拭っても拭いきれていない。

「僕はずっとお姉さんと一緒だ。いつまでもずっと、ずっと一緒なんだ」

────これでいい。僕はこれからドアをノックする。旅はもう終わりだ。これで旅は思い出になる。素敵な思い出になるんだ。これで金沢動物園での暮らしがまた始まる。今までどおりの動物園での楽しい、お姉さんと一緒の暮らしだ。
  
  
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「みんな、ありがとう。とても楽しかったです」
僕はウォンバット達にそれだけを言い、そのまま振り向いてドアをノックした。いつまでも涙が止まらない。
ウォンバット達の顔を見ていると帰れなくなりそうで、あまり丁寧にお別れの言葉を話すことが出来なかった。

ドアはいつものようにゆっくりと開いた。旅はこれからも続くかのように、今までどおりゆっくりと開いていく。特別なことは何もない。だけどドアの隙間に覗く景色を僕は見ることがどうしても出来ない。
金沢動物園だということが僕にはわかっている────だから見ることが出来ない。

「ヒロキや私と遊んでくれてありがとう。みんなのことは忘れない。もしまた会えるなら、今日よりもっと、もっと楽しく会いましょう。さようなら、オーストラリア大陸のウォンバット達」
お姉さんの目からもう一度涙が溢れた────そしてお姉さんはドアをくぐった。

「ヒロキ、金沢動物園だよ!やっぱりドアはヒロキのお庭につながっていた」と、精一杯の明るい声が聞こえる。
僕は心を決め、お姉さんの後に続いてドアをくぐった。そこは確かに金沢動物園の中、オセアニア区の見慣れた僕の庭だった。

────この旅は終わるんだ。大丈夫だ、寂しい気持ちはきっと今この瞬間だけだ。少しの間だけだ。大丈夫、全てが懐かしく楽しい思い出に変わる。
  
  
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「メルボルン動物園に行こうよ、僕が案内してあげるよ!」

ドアの向こうで声がした。子供のウォンバットの声だ。
僕は振り返ってしまった。閉まりかけたドアの向こうに子供のウォンバットの笑顔があった────

「駄目だよ、旅は終わりだ。僕は飼育係のお姉さんと金沢動物園に帰るんだ」
僕は頭の中でその言葉を何度も繰り返した。旅をちゃんと終わりにして、またお姉さんと金沢動物園で暮らす────そう決めたはずなのに、思い残したことが僕の邪魔をした。

「お姉さん、ごめんね。すぐ戻るよ。またこのドアを開けて金沢動物園にすぐに戻るから────」

「ヒロキ!?」後ろでお姉さんが叫ぶ声が聞こえる。
僕は閉まりかけたドアをすり抜け、オーストラリア大陸に戻ってしまった。
本当はお姉さんと一緒に戻りたい。でもお姉さんは金沢動物園に帰らなければいけない。だからしかたなかった。

 僕は一人でオーストラリア大陸に戻ってしまった────
  
  
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後ろでドアが閉まる音が聞こえた。それは今までよりも少し大きく嫌な音に感じる。

「よかった、まだ一緒に遊べるんだね」子供のウォンバットは喜び、子供らしいかわいい笑顔で僕に飛びついてきた。
ウォンバット達は何も言わず微笑み、優しく頷いている。

────大丈夫、このドアをくぐれば金沢動物園だ。すぐに帰ることが出来る。

僕はどうしてもメルボルン動物園に行かなければいけない。僕がオーストラリア大陸で産まれたこと、短い間だけどメルボルン動物園で暮らしていたこと────それを必ず確かめるんだ。



続く
  
  

  
  
  
  
  

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by bon_soir | 2018-08-06 13:52 | 金沢動物園 | Comments(0)