「僕が頼まなければいけないのは───人間の神様だ」
いつもどおりの優しい笑顔に会い、いつもどおりの楽しい日々を過ごしたい
「特別嬉しいことは必要ない、ただこれまでどおりいつもどおり───」
閉園後、一度部屋に戻ったウォレスは今日お昼寝をしているときに見た怖くて寂しい夢のことを思い返し、“これからもいつもどおりに──”ということだけを願うように考えていました
そうして考えついたのは
「人間の神様にお願いすること」
そのことでした
「ウォンバットのことはウォンバットの神様にお願いしている。今の飼育係さんとずっと一緒に過ごせるようにお願いするには、きっと人間の神様にお願いしなくちゃいけない───」
何度も頭のなかでそのことを考え、何度か小さな声でそのことを呟いた
そんなウォレス
大きな月が夜空に浮かぶ冬の寒い真夜中、ウォレスは一人そっと外へ出ました
澄んだ夜空には月だけじゃなく、たくさんの星が動物園をそっと照らし、どこか動物達を呼んでいるようでした
綺麗な夜空の下、穴を掘り始めたウォレス
ウォレスはウォンバット、木には登れないけど穴を掘ることができます
静かな夜、ただ静かに“さっさっさっ”と穴を掘り続けるウォレス
「人間の神様に会ってお願いをする、それはどういうことなんだ。僕はどうすれば人間の神様に会えるんだろう───」
穴を掘っていた手を一度止め、ウォレスは夜空を見上げました
東の空は光で滲み始め、不思議な色で朝が近づいてきたことを知らせています
「寒いね」
冷たい地面に穴を掘り続けたウォレスは少し前から泥で汚れ、かじかんできていた自分の手を一度見つめ寂しそうに微笑み、温かい干し草のベッドが待つお部屋へと戻っていきました
「また朝になれば飼育係さんが迎えに来てくれる、眠っている僕を起こしに来てくれる───」
ウォレスはそっと目を閉じ、すぐに夢の中へと滑り込んでいきました
「飼育係さん、これがオーストラリアだよ」
小さな声で寝言を言ったウォレス
明け方から朝に見ていた夢
それは夜の動物園で見る星を100倍にもしてぶちまけたような星空の下、大好きな飼育係さんと一緒にオーストラリアの高原を散歩してまわる、そんな夢でした
もちろんひときわ明るく輝く南十字星も二人の目にはそのまま輝いています
「最高の気分だ」
動物園にはすっかりと朝日が登っていましたが、ウォレスはもう一度寝言を言い、楽しい夢を見続けていました
夢の中で飼育係さんがウォレスを呼びます
「ウォレス、ウォレスっ!」
「ウォレス」
その声はそのまま眠っているウォレスを呼ぶ声へと変わっていきました
「朝だ、ウォレス」
そのいつもの優しい声に起こされたウォレス
少し寝ぼけながら庭へ向かい、ふと立ち止まり晴れた空を見上げ、ウォレスを待ついつもの笑顔を見つめます
ウォレスは毎朝と同じように壁を見て、そして土管へと向かいます
「今日は昨日よりも少し暖かい」と呟き、とことこと歩くウォレス
いつもと少し違うのは動物園を歩く人の中に“人間の神様”を探すこと───
少し探したくらいでは見つかりません
そもそも今、人間の神様が傍にいるのかいないのか、ウォンバットのウォレスには全くわかりません
「この土管の向う側に神様がいればいいのにな」
ウォレスはそう言って、いつものように土管の中に入りました
「神様に会うためには、そしてお願いをするためには、やっぱりお行儀よくしていた方がいいかもね」
そう考え、はみ出た干し草を集める
そんなウォレス
全部土管の中へ───
それはお昼寝も気持ちよくするためには重要なこと
丁寧に丁寧に
手前から奥の方へと、丁寧に丁寧に
そして今日もお昼寝の間の夢の中
温かい干し草に顔を埋めて夢の中
テポリンゴ達の声もだんだんと小さくなって夢の中
ウォレスはいつものように土管の中で夢の中
きっと心配なんていらない、そんないつもどおりの動物園でいつもどおり夢の中
夏の虫、虫の声に代わり聞こえてくるのは渡ってきている鳥の声
少し冷たい冬の風、空気を澄ませる冬の風
風と一緒に空は澄んで、動物達は青い世界に包まれる
「ウォレス、ウォレス」
いつものように飼育係さんがウォレスを優しく起こす優しい声がしました
すぐに目を覚ましたウォレス
「やあ、今日は少し早いんだね。朝の夢が途中で終わってしまったよ」
そう言ったウォレスの顔は嬉しそうに微笑んでいました
ウォレスが楽しむ動物園、ウォレスが幸せだと感じる動物園
ウォレスと楽しむ動物園、ウォレスに愛情を、幸せを貰う
そんないつもどおりの東山動物園
ウォンバットの神様がいるように、どこかに人間の神様がいてくれるなら
この小さな幸せがずっと続くように、ずっといつまでもみんなの幸せが続くように、と
ただそれだけを、お願いします
人が幸せを祈るように、動物達も幸せであることを祈ります
いつもどおり、いままでどおり
ただそれだけの小さな幸せ
ただそれだけを、お願いします
「今日は“ほうき”じゃないんだね。草を持ってきてくれたのかい?」
「みんなにとっての幸せってどんなこと?僕にとっての幸せってこんなこと」
「好きな人の笑顔を見て僕も笑う、そうやってただ毎日過ごす。今日も明日も明後日も───」
「僕の幸せって、ただそんなこと」
「飼育係さんが干し草を撒く。新しいふかふかの干し草だ」
「僕は干し草を土管の中に集める。また、もっともっと、あるだけ全部集めていく」
「ああ、本当だね……」
「大丈夫、少しくらいどうってことない」
「飼育係さんがたくさん持ってきてくれたんだ、大丈夫」
「干し草は潤沢だ」
「一緒に集めた愛情もね、もちろん潤沢だ」
干し草が少し多いこと
それ以外何も変わらない、みんなが望むいつもどおりの一日
眠っているといつの間にか閉園の時間
目を覚ましたウォレスはすぐに部屋へと戻っていきました
「人間の神様、聞こえているかい?どこかで聞いてくれているかい? 今日一日、特に何も無いような一日だった。ただの冬の一日さ」
「これでいいんだ、これだけでいいんだ。このくらいでも望んじゃだめかい? お願いしちゃ駄目なのかい?」
「いつもどおり、何も変わらずいつもどおり、こんな日々はずっと続いていくんだよね?」
「続けさせてくれるんだよね?」
「特別美味しいものを食べさせろとか、そんなことは言わないよ」
「草だけでもいいんだ」
「眠る場所も土管でいい。いままでどおりだって言っただろ。あの土管は大切な物だ」
「人間の神様、ウォンバットの声は聞こえるかい? 変わらないいつもどおりの毎日を、ずっと、これからも───」
「ウォレス、何を話しているんだ?」
ウォレスが呟いていると、大好きな飼育係さんが家に帰る前にウォレスの様子を見に来ていました
見上げればいつもの優しい笑顔
「あぁ、ごめん。なんでもないよ」
ウォレスは首を少し横に振り、微笑みながら飼育係さんの目を見つめます
「そうだ、これから僕と一緒にオーストラリアに行かないかい?」
ウォレスがそう聞くと少し驚いて、飼育係さんが笑いました
「今からかい? そんなこと、できたら楽しいだろうね───」
「本当さ、僕はからかってるわけじゃない。嘘を言ってるわけでもない───本当のことさ」
「オーストラリア大陸へ、行こう。僕と一緒に、今から、ね」
「いいね。行こうか、ウォレス」
飼育係さんは今までで一番優しい顔で微笑みました
ウォレスも微笑んで頷き、「着いてきて」と一言言って歩き出しました
「オーストラリアへは土管のトンネルを抜けていく。知っているかい?庭にあるあの土管はオーストラリアと繋がっているんだ」
「行こう、僕と一緒にオーストラリア大陸の旅に出かけよう」
「わくわくする気持ち、それだけあれば旅の準備は出来ている」
「優しい人、大好きな人。僕と一緒にオーストラリア大陸へ旅に行こう。土管のトンネルを僕と一緒にくぐり抜けて出かけよう」
「ちゃんと帰ってくるから怖くない。優しい人、みんなを僕はオーストラリアへと連れて行く」
「それが僕の役目だ」