運転手の猿が走らせる上野動物園のモノレール。
キョウコさんが眠っている時、フジは2回目の旅に出掛けていました。
「やっぱり楽しいよ。この前の星空の中を走るのも綺麗だったけど、よく晴れた昼間に空を走るのも本当に素敵だね」
フジは運転手の猿に静かに話しかけました。
運転手の猿はうるさいのが嫌いなことをフジはちゃんと気にしているのです。
「運転手さん、海の方を見てよ。海は青いでしょ。空も青い。両方がとっても青いから海と空の境目がどこなのかわからないんだ」
フジは窓から海と空を眺め。そう言いました。
「私はいつだって楽しいですよ。モノレールを走らせている時はいつだって楽しい」
運転手の猿は小さな声で言いました。
「それに今回の旅の釧路は私の目的地への旅です。初めてのことなんです」
フジは運転手の猿に聞きました。
「その、初めに言っていたユキオさんのことが好きなのかい?」
「彼こそが私にとっての上野動物園です。今は釧路で暮らしていますが、ずっとずっと上野動物園で暮らしていたんです」
「私にとって、上野動物園の動物達にとってとても大切な存在であることは間違いありません」
そう言って運転手の猿はそれきり一言もしゃべることはありませんでした。
「お父さんもお母さんも、キョウコおばさんもユキオさんのことが好きだったのかな……僕もユキオさんに会うんだ」
運転手の猿が言った「フジが会わなければいけない―」という言葉、その意味をフジは一人考えていました。
フジには上野動物園のモノレールの静かな音だけが聞こえていました。
「あっ!」
今までわからなかった青い海と青い空の境目にふと気がついたフジは小さく声をあげました。
その時、運転手の猿も同時に口を開きました。
「釧路が見えてきました。ユキオもきっと私達に気がつくと思います」
フジはモノレールの窓からだんだんと大きくなってくる動物園を覗きました。
「ユキオさんに会えるんだね。やっぱり運転手さんもドキドキするのかい?」
フジがそう聞くと運転手の猿はいつもの様に小さな声で言いました。
「してますよ。私だって動物です。今、最高の気分です」
上野動物園のモノレールは慌てることなく釧路の動物園に降りて行きました。
いつものように静かにゆっくりと旅の目的地に着陸しました。
運転手の猿の目に涙が溜まっていました。
二人の目の前にホッキョクグマのユキオが立っていたのです。
フジが見たユキオ、それは本当に大きく、そして堂々としていました。
「お久しぶりです、ユキオさん」
運転手の猿にしては大きな声がフジに聞こえました。
「旅は続けていますか?運転手さん」
フジにとってユキオのその声は優しくたくましく、そしてなにより温かく聞こえました。
「ユキオさん、この子がマレーグマのフジ君です。ウメキチの弟です」
運転手の猿がフジを紹介しました。
「あぁ、そうだと思ったよ。お父さんのアズマによく似ている」
ユキオはフジをそっと見下ろし、何度かうなずきました。
「君が産まれ、そして外に出てくる前に私は釧路に引っ越してしまった。あの時私は君に会える日を心待ちにしていたんだけどね」
「ユキオさん、初めまして。僕がマレーグマのフジです」
フジはきちんと挨拶をしました。
「上野動物園はどうだい、変わったことはないかい?ここは上野動物園から遠い、あまり情報がないんだ」
ユキオはフジに聞きました。
運転手の猿はフジの方を見て目が合うと一回だけうなずきました。
フジは自分が知っている色々なことをユキオに話しました。今年は上野動物園でもたくさんの雪が降ったことや色々な動物達に赤ちゃんが産まれたこと、そして悲しいお別れのことなど、一生懸命に話をしました。
フジの話をゆっくりとうなずいて聞いていたユキオが少しさみしそうに言いました。
「そうか、グンマも長い旅に……しかたのないことだけど辛いことだね」
ユキオはよく晴れた青い空を見上げ、釧路に来る前の上野動物園でのことを思いました。
「ユキオさん、ユキオさんのことを僕に聞かせてください。僕は大人になる前にユキオさんのお話を聞きたいんです」
フジはユキオに言いました。
きっとユキオは何でも知っている―そう感じていたのです。
「私は上野動物園が大好きなんだよ」
ユキオのお話はその一言から始まりました。
「ドイツの動物園から日本に来たんだ。初めは上野動物園じゃない小さな動物園だ」
ユキオはフジの目を見つめ、落ち着いて話していました。
「その2つの動物園も嫌いじゃない、大切な思い出だ。だけど―」
ユキオは一回間をとり自分自身にも確認するように言いました。
「上野動物園で私はレイコさんと出会ったんだ」
上野動物園でずっと一緒だったレイコさん。それはユキオの全てでした。
「レイコさん……」
運転手の猿がつぶやきました。
釧路に来て2年ほど経っても忘れるわけが無い大切なレイコさんとの思い出、それは上野動物園の動物達全員の思い出でもあったのです。
ユキオはフジにレイコさんとの上野動物園での思い出を話しました。
長い時間を一緒に過ごしたユキオとレイコさん。思い出の数も本当にたくさんありました。
そして悲しいお別れのことをフジに話した時にはユキオの目には涙が溜まっていました。
「レイコさんは優しかった。いつも私のことを見ていてくれた」
ユキオはフジに話していると自分でも忘れかけていたレイコさんとの何気ない毎日まで思い出されてきました。
上野に帰りたい―そう思うのに時間はかかりませんでした。
フジは一つ一つ一生懸命に聞き、ユキオに質問をしました。
「ユキオさんはレイコさんのことが好きだったんですか?」
「もちろんだよ。大好きだった」
ユキオは恥ずかしそうに空を眺め、小さな声でフジに言いました。
「フジ君、君もきっと出会うことになる。僕にとってのレイコさんのような存在のマレーグマの女の子にね」
フジは円山動物園でウメキチと一緒にいた女の子のことを思いました。
「お兄ちゃんにとってのレイコさんなのかな……」
「ユキオさん、レイコさんもユキオさんのことが大好きだったんですか?」
「それはわからないよ、恥ずかしくってそんなことレイコさんに聞けないだろ」
ユキオは恥ずかしそうに笑いました。
フジも運転手の猿もみんなで笑いました。
「運転手さん、モノレールはよく走らせてますか?」
ユキオが運転手の猿に聞きました。
「時々ですね、この前はフジ君とお母さんのモモコを乗せて円山動物園に行ったんですよ」
猿がそう言うと、続けてフジがユキオに話しました。
「お兄ちゃんの所に行ったんだ、お母さんと一緒にだよ。運転手さんには大雪も降らせてもらって本当に楽しかった」
「最近ではそのくらいです。動物達みんな忙しいんでしょうか、私は少しさみしいんですけど」
運転手の猿はいつもの小さな声をもっと小さくして言いました。
フジが聞きました。
「ユキオさんはモノレールで旅をしたことはあるの?」
運転手の猿がユキオを見て少し微笑みました。
ユキオもうなずいてフジにお話を始めました。それはレイコさんとユキオの二人の素敵な旅の思い出でした。
「内緒だよ、私とレイコさんは何回も旅に出ている、上野動物園のモノレールに乗ってね」
ユキオとレイコは二人でユキオの生まれ故郷、ドイツのミュンスター動物園やレイコさんの生まれ故郷、ロシアのレニングラード動物園にも行きました。
二人が上野動物園に来る前の池田動物園やドイツのルーエ動物園にも行ってみたりしました。
その他にも色々な場所を旅して二人は笑っていました。
ユキオとレイコさんはいつも二人で仲良くモノレールにのって旅をしていたのです。
仲良く幸せそうな二人を見ていると運転手の猿も幸せな気持ちになりました。
夜の旅では星の数が多く見え、昼の旅では白い雲が大きなホッキョクグマに見えました。
運転手の猿は二人を乗せてモノレールを走らせることが大好きでした。
「ホッキョクグマ舎が長い工事になったんだ。お客さんにもずっと会えないとても長い工事だった」
ユキオはゆっくりと座り、話をつづけました。
「私とレイコさんはそれまでより長い旅に出かけたんだ」
「どこに行ったんですか?」
フジはユキオの口調がなにか変わったことを感じ、自分も座って話を聞きました。
「北極点だよ」
そう言うとユキオは静かに話を続け、ときおり空を見上げました。
「北極点?」
フジには聞き慣れない場所でした。
「そうだよ北極点さ。北極という氷で出来た大地にそれはある。全ての場所からの北の先、北の終わりが集まる所に北極点はある」
「地球の回転の中心だ。大きな芯棒が立っている。それをレイコさんと一緒に見に行ったんだ。私達ホッキョクグマにとっての大切な場所だ」
ユキオは大切な思い出、レイコさんとの一番の思い出をフジに話しました。
「モノレールはそんな遠くまで走れるの?」
フジはドキドキしていました。
自分が想像もしたことのない所をユキオは知っているのです。
「もちろん行けますよ」
運転手の猿はフジに言いました。
「でもユキオさん達は途中からは自分達で歩くと言ったのです。自分達で最後は歩く、と」
ユキオは話を続けました。
「二人でお話をしながら歩きたかったんだ。私はレイコさんにお礼がしたかった」
「今まで一緒に暮らしてくれてありがとう、って伝えたかった。本当に毎日幸せだったからね」
フジは静かにユキオの話を聞いていました。
「そして、二人のお家は新しくなるけど、変わらずこれからもずっとよろしくと話をしながら歩いたんだ。静かな道のりだった」
「レイコさんは優しく微笑えんでくれたよ。こちらこそよろしく願いますって言ってくれたんだ、いつまでも忘れない」
フジは見たことが無い北極の氷の大地を思い浮かべていました。ユキオとレイコさんが並んで歩いている北極の大地です。
「そして私達は北極点に着いたんだ。それがどんなに嬉しかったか、フジ君、君にはわかるかい?」
ユキオは目に涙をたくさん溜め、レイコさんのことを思いました。
「北極点にある大きな芯棒を二人で見上げたんだ。その時は二人のこの幸せがずっと続くと信じていたんだ」
その時、何故かフジには見えました。見たことも想像したことも無い大きな地球の自転の芯棒、北極点が見えたのです。
「だけど新しい家が出来てすぐ、レイコさんとのお別れが来てしまった。突然だった」
ユキオには小さい方の放飼場で笑っているレイコさんの姿が思い出されてきました。お別れしてからの毎日、いつも思い出す優しい笑顔です。
「レイコさんは最後に言ってくれたんだ。今まで本当にありがとうってね。私は涙をおさえられなかった」
そう話しながらユキオの目から溜まっていた涙がこぼれ落ちていました。
「私はすぐに気がついた。これで永遠に会えないわけじゃない、レイコさんは先に行ってるだけだ、と。どこかで私を待っていてくれてるだけなんだとね」
涙がこぼれないようにフジは空を見上げました。見上げた空には一番星が輝いていました。
もうすぐ夜が来るのです。
ユキオが運転手の猿に言いました。
「運転手さん、帰りのモノレールに私も乗せて貰えませんか?」
運転手の猿は少し考えてからいつもの小さな声で言いました。
「やっぱり上野動物園の方がいいのですか?」
「釧路は夏も暑くないし、冬は大好きな雪がたくさん降るんです。それでも私は上野動物園に帰りたい」
「やっぱり私はレイコさんと同じ“上野動物園のホッキョクグマ”でありたいのです。そしてレイコさんが見ていた最後の景色、それを見ながら私も最後の旅に出たいのです」
「そう、少しでも早くレイコさんに会えるように」
フジにもわかりました。ユキオにとっての大切な物、それがどれだけ大切なのかということを。
「運転手さん、大丈夫だよね。ユキオさんも一緒に上野動物園に帰れるよね」
「きっと飼育係さんはびっくりしてしまうでしょう。でも大丈夫です。飼育係さんもユキオさんのことが大好きなんですから」
運転手の猿の顔にはなんの不安もありません。
「本当はユキオさん、私はあなたを迎えに来たんです。さぁ、モノレールに乗ってください」
ふとユキオが振り返ると少し離れた所から3人を見つめているホッキョクグマがいました。ツヨシです。
ユキオはツヨシの所に歩いて行き、ツヨシに話しました。
「ごめんね、君のことが嫌いなわけじゃない。ただ私が上野動物園のホッキョクグマってことなんだ。私は上野動物園に帰らなくてはいけない」
ツヨシは全てをわかっていました。
ユキオの中にはレイコさんがずっといるということを。そして二人をつないでいるのは上野動物園だということを。
「ミルクにもよろしく言っておいてね。ツヨシ、短い間だったけどありがとう」
フジとユキオを乗せた上野動物園のモノレールは静かに走り出しました。
来た時は青い空が広がっていましたが、帰りはたくさんの星と明るい月が輝く綺麗な夜空です。
フジがユキオに会わなければいけないという理由。
最後まで運転手の猿は教えてくれませんでしたが、フジには少しだけわかったような気がしていました。
もう少し大人になればきっと全部わかる、と考えたフジは横に座っているユキオの横顔を見つめました。
立派な大人の動物がフジを導いてくれます。
立派な大人のマレーグマになるために毎日色々な経験をして、その経験で夢を見る準備をして楽しい夢をフジは見ます。
フジが大人になるまであと少しです。
エミューがフジ達3人を迎えてくれました。
運転手の猿が軽く挨拶をしました。
ユキオと別れ、フジがマレーグマ舎に戻るとキョウコさんはまだ眠っていました。
「ただいま」
フジが声をかけてもキョウコさんは眠っています。
「ユキオさんが帰ってきたことをみんなが知ったらビックリするだろうな」
フジは釧路までの旅を思い返していました。
ユキオは上野動物園のホッキョクグマ舎に帰ってきました。
デアを探しましたがデアは見当たりません。
ふいにレイコさんの匂いがしたような気がしました。
「ただいま」
ユキオはそうつぶやき、懐かしいホッキョクグマ舎をくまなく見て回りました。
ユキオが最後の旅に出るのはまだずっと先になるでしょう。
でもその時は大好きなレイコさんと同じ入口から旅に出ることが出来るのです。
少しでも早くレイコさんと再会するために。
変わること、変わらないこと。色々なことをフジは感じて大人になります。
不忍池のオオワシ、そしてユキオ。
今日一日、たくさんのお話を聞き、色々な経験をしたフジ。
大人になるのはもうすぐです。